ヒーロー

10月12日、13日の2日間、藤村治先生が当院にお出でになりました。

藤村治先生は1980年に熊本大学医学部を卒業し、八尾徳洲会病院で研修を行った後、カナダに留学。その後、いくつかの施設で修練を積み、現在はカルフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で循環器内科の教授をされておられます。

私は2日間とも外来があったため、短い時間しかお話を伺うことが出来なかったのですが、印象に残った言葉が「ヒーロー」でした。その言葉は藤村先生が行く先々で出会ったボス達の話の中で出てきました。

人種差別的な発言をする患者さんを追い返したボス、自分の部下が転勤した先で不当な差別を受けている事を知ったときに部下を守ったボスなどなど、色々なエピソードを伺いました。そして、「勉強も大切だけど、人との出会いはもっと大切だ。色々なヒーロー達との出会いが今の自分を作ってくれた。」と締めくくられました。

そこで私の中のヒーローを思い返してみました。私の医師人生の中にもヒーローはたくさん出てきます。その中でも医師になって4年目に勤務した徳之島で出会った二人のヒーローの話を書きたいと思います。
一人目は私が徳之島徳洲会病院に赴任したときの院長、飯田信也先生(現鹿児島徳洲会病院院長)です。199床の病院に医師は研修医を含めて3名。小児科や整形外科の常勤医は不在で、一人一人が年中無休24時間オープンという状態でした。それまでローテーション研修を受けてきたと言っても、手術が出来るわけではありませんし、新生児の処置も出来ません。そんな中で飯田先生は新生児の処置から、分娩、外科手術、時には開頭手術、整形外科手術まで対応されていました。

当直中に産婦人科医不在の中での分娩に当たったことが何度かありました。いつもは特にトラブル無く終わるので助産師から言われるままに動くだけで問題ないのですが、その時は胎児心拍の低下があり助産師から吸引分娩をして欲しいと言われました。そんな経験が無かった私は、深夜ではありましたが自宅で就寝中の飯田先生に助けを求めました。そして、数分後にはパジャマ姿の飯田先生の姿が分娩室にありました。吸引分娩も成功し、無事新生児の鳴き声が聞こえてきたときには、本当にホッとしたことを昨日のことのように覚えています。

医療の供給が限られている中では何が専門であるかは関係なく、医師は他にいないのだから、とにかく全力を尽くすのだということを飯田先生は教えてくれました。

二人目は名瀬徳洲会病院の生野俊治先生です。

4年目で徳之島に行った私は、急性心筋梗塞(AMI)の患者さんが来られると一人でカテーテル治療を行っていました。造影した画像を名瀬徳洲会病院に伝送し、治療方針を相談しながら治療を行うという仕組みでした。相談は出来るもののカテーテルの操作、ワイヤの操作は自分がやるしかありません。それまでは指導医が近くに居て上手くいかないときは代わって頂いていたのとは別世界でした。自分が出来なかったら、島には誰も代わってくれる人がいないというプレッシャーと戦いながらの治療でした。治療終了後も気を抜くことは出来ませんでした。ICUやCCUも無い環境で治療当日は院内で待機しながら頻繁にベッドサイドに足を運びました。心室頻拍が頻発し、20回以上除細動をかけるという状況に遭遇したこともありましたが、そんな時も患者さんの処置をしながら生野先生に電話をしていました。

私のつたない手技を画像伝送し、励まして頂きながら治療を行ったAMIの患者さんの数は1年で12名になりました。治療の甲斐無く亡くなられた方もいらっしゃいましたが、死亡率は保存的加療の時期から一気に低下し、全国平均と同じ程度まで改善しました。

自分一人で対応できるか不安に思う場面に何度も遭遇しましたが、昼夜を問わずいつでも相談に乗って頂き、電話の最後に必ず励ましの言葉をかけてくれた生野先生も私の中のヒーローでした。

二人のヒーローの背中は遠くにありすぎて、とても追いつくことは出来ません。でも、ヒーロー達がやっていたのと同じく、指導医が居ない環境で頑張っている後輩達の相談に乗り続けることは出来るかと思いながら応援に出かけ日々です。