離島医療

2007年12月25日

離島医療

後期研修委員長・内科部長 田村幸大

12月21日、22日と2日間、徳之島に出張しました。

よく南の島でのんびり気分転換をしていると思われますが、断じてそんな事ありませ

ん。

徳之島で勤務されている先生方の名誉のためにも強く否定しておきます。

のんびりどころか”激しく忙しい”のです。

軽症の患者さんが押し寄せてくるのは、”静かに忙しい”と表現します(なんか変で

すが)。そうなんです。重症患者が押し寄せてくるのです。

ちなみに2日間滞在中の仕事内容ですが、

1日目:シャントのPTA(略語だけでは木村先生から注意されるかもしれないので

percutaneous transluminal angioplasty:風船を使ってシャント血管の狭窄部分を拡

張する治療)3件、透析患者さんのデータチェック50名、外来6名

2日目:外来50名、内1名は昼から緊急で透析導入。病棟コンサルト数名。

しかし、私の師匠の名瀬徳洲会病院循環器の生野先生は150名位の外来をやっています。

鹿屋の方も忙しく応援に行っている場合では無いという話も出てきそうですが、徳之

島徳洲会病院は医師が不足しています。当院以上に厳しい環境でやっている以上、行かない訳にはいきません。

では、なぜ鹿屋から徳之島に行くようになったのか?

3年目に福岡徳洲会で勤務していた時、翌年の1年間、徳之島に行って欲しいという依頼がありました。

徳之島と言えば徳田理事長の生まれ故郷です。離島で勤務するのも良い経験になるかと思い、鹿屋に帰るのでは無く徳之島へ行く事にしました。
しかし、徳之島へ行く事

が決まってから周囲の人から言われる言葉は「先生凄いね~、火中の栗を拾いにいく勇気があるんだね~」と。

“火中の栗を拾う?”

よくよく話を聴いてみると内科の常勤医はゼロ。4年目になる私が唯一の内科医だ

と。

武者震いをおさえきれず、「出来るところまで頑張ってみよう」と心に誓って徳之島

に降り立ったのは、平成13年5月の事でした。

普通は遠方から引っ越しをしてきたらその日1日くらいは家の片付けなどさせてもら

えそうなものですが、病院に着いた数時間後から外来をやっていました。ようやく落

ち着いて時計を見ると夜の11時になっていました。

これまで経験した事がない手荒い歓迎ぶりに涙が出そうでした。

「まあ、翌日は引っ越しのために1日フリーにしてもらっているからいいか」と思い

帰宅。

しかし、翌日引っ越しの荷物が届いて間もなく病院からの魔の電話が…

「外来を手伝ってもらえませんか?」

人がいない所に来てしまった以上、「No」は言えません。

引っ越しも途中で放り出して、病院に向かい夜中まで働きました。

連日、帰宅は日付が変わってから。一方、朝は6時30分から回診(よく遅刻していま

した)。

整形外科、脳外科、小児科の常勤医は不在で、その領域の患者さんを入院させて「誰にお願いしたらいいのですか?」と尋ねたら、「お前だよ」
という返事。入院させた

人が主治医になるという恐ろしいルールでした。

そんな調子で引っ越しの荷物が片付くのに1ヶ月くらいかかりました。

こんな話ばかり書いていると”離島医療残酷物語”というタイトルにした方がいいの

では無いかという声が聞こえてきそうですが、意外と振り返ってみると自分の生き方

を決めた大きな出来事に色々と出会う事が出来たので、正直なところ「行って良かっ

た」と今では思っています。

例えば、今は得意としている腎臓内科・透析の領域も、なにも知識が無いまま徳之島

に行って、月1回湘南鎌倉病院から来られていた小林先生から指導を受けて、診られ

るようになりました。その後、徳之島を離れても腎臓内科・透析と深く関わっていく

きっかけになりました。飲み会に行っても熱く透析の話を語っている先生でしたが、

最初に指導を受ける先生というのは大事ですね。もしも、この時透析にまつわる負の

側面ばかり話をする先生から指導を受けていたら、きっと透析にのめり込む事は無

かったでしょう。

他にも幾つか思い出に残っている事はありますが、その内の一つを。

私が当直している時に50代の男性が胸痛を主訴に救急搬入されました。

血圧こそ保たれているものの、全身に冷や汗をかいており、一見して重症感が漂って

いました。

心電図を取ると予想通り(こんな時の予想は外れて欲しいものですが)、Ⅱ・Ⅲ・

aVFのSTが上昇しているではありませんか!

一応、徳之島に転勤する前に名瀬徳洲会病院で冠動脈の治療(以下PCIと略します、疲れてきており、
木村先生に注意されても良いのでフルスペルは書きません、だからと言って来月の当直増やさないで下さいね)
を生野先生から指導されていたので、心臓カテーテル検査(以下心カテ)へと突入しました。

造影してみると大きな右冠動脈の全長に渡って高度狭窄がありました。幸い検査が始まる頃に胸痛は改善し、心電図変化も戻っておりました。

画像を名瀬徳洲会病院へ電送し、生野先生と話合いました。

生野先生「これは手を出すと結構大変な事になりそうだから、今日はヘパリン流して

体制を整えてから来週にでも一緒に治療をしようか」

私「はい、そうします(かなりホッとしました)」

不安定狭心症という事で入院。

翌朝、患者さんは「すっかり良くなりました」と言われておりました。

ホッとしながら外来をやっていると病棟からコール。

「あの患者さんが胸が苦しいと言って冷や汗をかいています」

昨日もヘパリンやミリスロールを流していたら改善したから何とかなるかと思いなが

ら薬を投与しますが、改善しません。

改善するどころから徐脈になり、完全房室ブロックになってしまいました。

前日の造影所見を思い出すと、とても一人では治療したくないという気持ちが先立ち

ました。

しかし、目の前の患者さんの状態はみるみる悪くなっていくし、生野先生がいる名瀬

までヘリコプターを要請しても実際に名瀬で治療開始するまでに4~5時間はかかる

事を考えるとそこまで持ちそうもありません。島には他に心カテを出来る医師はいま

せん。そんな状況が背中を押してくれて、色々考えながらも「自分が治療する」と決

断するまでに時間はかかりませんでした。

やり始めてみると予想通り難渋しました。一時ペーシングを挿入し、治療を開始した

ものの、閉塞した血管を拡張しても拡張しても、血流が再開してくれません。No

reflowという現象です。血圧はノルアドを使っても80~90と言ったところです。患者

さんは「先生、一生懸命やってくれたから、もう俺死んでも良いよ」と言い始める始

末。結局、何とか血流も戻って3時間に及ぶ壮絶なPCIが終わりました。

病棟に帰ってからも、血圧は低く、尿が出てくれません。心不全状態でした。

当時、徳之島にはIABP(わからない人はgoogleで調べて下さい)がありませんで

した。

経過を名瀬にいる生野先生に伝えたところ、

「IABPを朝のフェリーに乗せて送るから使ってみて」と。

フェリーの到着を待ち、日曜日でしたが朝からカテ室のスタッフをコールしてIAB

��を挿入しました。

これが徳之島の有史(そんなに大げさなものでもありませんが)の中で第一号のIA

��P挿入でした。

��ABP挿入後病棟に帰りましたが、島にはICUやCCUなどという設備はありま

せん。そんな環境で、しかもIABPを見るのも触るのも初めてというスタッフばか

りです。最初はずっとついて診ていましたが、他にも患者さんはいるし、何日も寝な

い訳にもいかず離れている時間も結構ありました。

結局、患者さんの状態はみるみる改善し、1ヶ月後には元気に退院されました。

それまで徳之島では急性心筋梗塞の患者さんはヘリコプターで名瀬に搬送されていました。
あまりにも重症の場合にはヘリコプター搬送も危険なので、血栓溶解などを行い島でそのまま診ている事もありました。当然、
亡くなられる方もおりました。

私がいた1年間10数件の心筋梗塞の方が来院されましたが、すべて島の中で治療が完結し、ヘリコプター搬送になった方はいませんでした。
この事は都会の病院では当たり前の事で、この治療に難渋したケースもPCIに慣れた先生がしていたらあっさり終わっていたのかもしれません。
だから、「自分が患者さんを救ったのだ」と言うつ

もりもありません。

今でも思いますが、本当に頑張ってくれたのは、看護師、MEなど周囲の人々でし

た。ICUもCCUもない、IABPが入っている患者さんなんて診たこともない、

そんな環境でも「島の人のために先生が頑張ってくれているのに、看れないなんて言

えないよ」と言ってついてきてくれたスタッフに本当に勇気づけられました。チーム

医療とよく言いますが、本当にチームの力で乗り越えていったと思いました。

医学生の皆さん、実際に研修医をしているみなさん、どんなに技術を身につけても、

日々の仕事が円滑に進むようにサポートしてくれているスタッフがたくさんいるので

す。そのような表に出ていない人々の手助けが無ければ、何も出来ません。例えば

「IABPを入れた患者さんは最初から最後まで先生が診て下さい」なんて徳之島の

ような環境で言われた日には患者さんが死ぬか自分が疲れて死ぬかの体力勝負になってしまいます。
医師として半人前の時期でも皆さんをサポートしてくれるのは、皆さんが患者さんに対して”一生懸命”だからです。それがあれば、
周囲のスタッフは、

きっと頼りになるパートナーになってくれます。

医師として一人前というのはどう定義すればよいのかわかりませんが、それまでいつ

も上の先生に守られているという安心感の中でやっていた日々から、徳之島で自分し

かいない、自分が何とかするしかない、そして頑張ったら自分でも何とか出来たとい

う経験を積み重ねて一人前の医師に少し近づけた気持ちになりました。そして、この

経験が自信となって6年目でも鹿屋に帰って一人でやってみようという思いが持てる

ようになりました。徳之島の1年間は一人の医師として自立に向かって歩き出すきっ

かけになった1年間でした。

だから、恩返しのつもりで今も徳之島に通っています。

ドラマほど格好良くないし、大変な事も多いけれど、一人の医師として成長するきっ

かけを与えてくれるのが、僻地(鹿屋も含みます)・離島の研修なのでしょうか。

そんな環境の研修も良いものですよ。